1. はじめに
「水素社会」という言葉が広がりつつある。
日常生活や産業活動で水素を燃料として利活用する社会を意味する。
しかし、技術、コスト、制度、インフラの面で多くの課題があり、
社会に広く受容されるか否かは不透明である。
この論考では、「水素社会の実現に向けた日本の努力が、中長期的に何をもたらすのか?」
について推測する。
まず、前提条件として日本が推進する
水素社会の「意義」と具体的な「到達目標」について整理した。
次に、現状と技術的な側面に基づいて、各到達目標の見通しを述べた。
最後に、これらの整合性に基づいて水素社会の意図を考察した。
2. 水素社会の意義と到達目標
2.1【意義】
2014年6月に経済産業省がとりまとめた
「水素・燃料電池戦略ロードマップ(以下、水素ロードマップ)」で示された、
「水素社会」を実現する意義は以下の4つである。
① 省エネルギー
② エネルギーセキュリティ
③ 環境負荷低減
④ 産業振興・地域活性化
2.2【到達目標】
2040年までに段階的に「水素社会」を達成するとしており、
以下の具体的な到達目標を示している。
1. 2015年度内に、水素燃料を供給する水素ステーションを
四大都市圏を中心に100箇所程度確保する。
2. 2025年頃に、燃料電池自動車(FCV:Fuel Cell Vehicle)の車両価格を
ハイブリッド車と同等にする。
3. 2030年までに、家庭用燃料電池を530万台普及する
3. 各到達目標の現状と見通し
3.1家庭用燃料電池【到達目標(3)】
2009年に市場投入された家庭用燃料電池は既に累計販売台数が10万台を突破しているが、
燃料は都市ガスもしくはLPガスで、主成分は各々メタン(CH4)とプロパン(C3H8)である。
これらを家庭用燃料電池内の改質装置で改質して水素を取り出し、電気と熱に変換している。
水素を供給しているわけではないので、これを以て水素社会とは言い辛い。
将来、530万台が普及(2030年目標)した場合に、純水素を利用するのであれば、
水素の消費側として水素社会を支えることになるが、
今のところ家庭用燃料電池へ水素を供給するインフラ整備の計画は無い。
家庭で燃料から電気と熱を得られるため、エネルギーの利用効率が上がって省エネ効果はあるが、
将来期待できる効果は限定的(家庭部門におけるエネルギーの削減見込みは約3%)である。
家庭用燃料電池の省エネルギーへの寄与度は低い。
都市ガスやLPガスのエネルギーインフラ(燃料供給システム)は既に存在するので、
水素社会は別として、家庭用燃料電池は現在の社会システムに馴染み易く普及し易い。
530万台普及の目標は現実的であり、産業と経済を活性化する見込みはある。
家庭用燃料電池の普及は「④産業振興・地域活性化」に貢献するものと考えられる。
3.2 FCV【到達目標(2)】
FCVは車載タンクに燃料として水素を充填し、
これを燃料電池に供給して電気エネルギ ーに変え、モーターを駆動させる。
水素の充填に掛かる時間は3分程度、走行距離は500km以上である。
同様に、電気自動車(EV:Electric Vehicle)であればフル充電するために
100Vの電源で20時間程(200Vで7時間程)掛かり、走行距離は200km程である。
『FCVの使い勝手は、ガソリン自動車並に良さそう』である。
2014年12月に日本の大手自動車メーカーTOYOTAは、
燃料電池自動車MIRAIの販売を開始した。
販売価格は700万円台である。
10年前、FCVの販売価格は1台数千万円と見積もられていた。
それから比べると、一般車にかなり近づいた。
さらに、国や自治体が用意している減税措置と補助金等を加味すると、
400万円台で購入することも可能である。
まだかなりの部分を税金に支えられていることを忘れてはならないが、
『FCVは経済的にも、庶民の手に届きそう』なところまで来ている。
将来、ハイブリッド車並みの価格に近づく期待感くらいはある。
このようなことからか、MIRAIは発売から1カ月で受注は1500台に達したという。
現在、注文殺到で納期は2018年以降の見通し。出足は好調に見える。
しかし、年間1千台規模の生産体制では、
『しばらくは街中でFCVに出会うことはなさそうである。』
3.3. 水素ステーション【到達目標(1)】
2013年度から商用の水素ステーションが整備され始め、数十件の候補地が決定している。
現在稼働に至っているのは全国に22箇所である。
近い将来100箇所で水素供給が可能になったとしても、
『水素ステーションの守備範囲(車で10分)の外でFCVを使おうとは思わない。』
水素社会の実現には、水素ステーションを増やす努力がFCV普及と同じく肝要なはずであるが、
いずれもかなり小さな規模であると言わざるを得ない。
そして、更に根本的な問題は別にある。
日本で本当の水素社会を願うには、
『水素をどのように生産もしくは入手するか』が、
最も大きな課題である。
そもそも我々の住む一般的な生物圏には分子状の水素は殆ど含まれていない。
水素は宇宙で最も多い元素であり、我々の身の回りに豊富に存在するというのは正しいが、
ほぼ全てが有機物や水(H2O)のように化合物の状態である。
ここから水素分子(H2)を取り出すには、何らかの形でエネルギーの投入が必要である。
製油所や苛性ソーダ製造工程の副産物として発生する水素も、99%は自家消費されている。
水素ロードマップでは、水素の製造は天然ガスやナフサの改質を前提としており、
2030年以降は海外からの供給(原油随伴ガスなど)を見込んでいる。
この点については、著者は海外の水素生産事情を把握できていないので、
エネルギーセキュリティを支える可能性を含め、
今後調査の必要がある。
4. まとめ
現在利用されている家庭用燃料電池は水素社会とは無関係である。
このことから、FCV(水素消費側)と水素ステーション(水素供給側)の登場は、
一般家庭に純粋な水素を持ち込む仕組みの誕生を意味する。
しかし、水素ステーションとFCVの長期的な普及目標は示されていない。
海外における水素生産と供給の見通しなど、
著者が評価できなかった点はあるが、
近い将来も日本における根本的な水素供給ラインは脆弱なままである。
このようなことから、水素ロードマップに基づけば、
『これから小規模な水素車社会が始まる』、
というのが正しい見方である。
但し、この取り組みは、『水素社会』を体感し、
善し悪しを正しく評価する機会としては重要である。
そして仮に、『水素社会』が将来の社会に受容されなかったとしても、
一定の産業技術開発と経済的効果は、
水素車社会への挑戦と家庭用燃料電池の普及によって達成できる。
このように、水素社会実現への日本の努力がもたらす真の効果は、
『経済活性化と産業技術開発』である。
その他は問題にしなくともよい。
日本が持つ燃料電池分野の特許出願件数は世界で最も多く、追随を許さない。
2015年1月、TOYOTAは単独で保有する約5680件の特許を開放した。
この真意が何であるにせよ。
新たな技術開発と燃料電池の海外展開は、
これからが佳境である。
東京農業大学 応用生物科学部
醸造科学科 大西章博
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