板垣啓四郎
私たちは、どうして農業、農村、食料を対象に農学を拠りどころにして、その学びを目指すことになったのか。世界の食料問題、農村貧困の削減、環境問題などのグローバル・イシューの解決へ向けた取り組み、国内では食料自給率の向上、地方の再生と復権、食料・農産物の安全といった政策的課題への挑戦など、農学を学ぶ動機はさまざまであろう。農学を選択したのは、こうしたマクロ的な社会課題、いま流にいえばSDGsが掲げる目標の解決に向けてその方法と手段を農学に求めたという回答が返ってくるにちがいない。
一方で、それぞれの自分の感性に近いところでいえば、自然の営みのなかに身をおいて農業、林業さらには水産業に従事したい、微生物を含め生物界の神秘的な生態と生理のメカニズムを解明したい、自分の美的センスを磨いて園芸とか造園の分野に生かしたいなど、自分の内的な感性や思いに基づくものが、そもそも農学を目指す根源的な選択の基準になっているのではなかろうか。
無論、農業や環境に関わる社会課題の解決を、ずっと農学の学びの中心に据えているという回答があっても決して不思議ではないが、それだけではどうも熱い思いが持続しそうにない。率直にいってこれだけに頼ってはかなり無理がある。自分の感性の中心には、いつも農業、農村、そして自然環境があり、四季の移ろいや動植物が生長していく姿に心を引き寄せ、身近な農家の方々がまぶたに浮かび、途上国農村の貧しい暮らしが映像を通して目に焼きついている。それらを遠景にして、学びの対象に農学を選んだといったほうが、はるかに無理がないように感じる。
最近では、社会課題の解決といった建前論ばかりが学問分野の選択として優先され過ぎ、自分に素直な思いの部分が後景に退くといった奇妙な風潮が広がっている。議論するための舞台に社会に共通した課題をもってくるのは至極当然のことではあるが、それだけを論じるだけでは、自分の農業に思いをはせる感性が発露される機会を逸してしまう。
久しく農学原論といった類の書籍を読んだことがないが、かつて農学を専攻した学生は入学の当初に農学の原点を叩き込まれたものである。農学とは何かから始まって、農業・農村の果たす社会的役割について説くまで、自らが農学を選択した意味を確認するうえで非常に重要な基礎科目である。言い換えれば、農学の哲学あるいは学問のレゾンデートル(存在理由)である。
ところで、私の常々の持論であるが、農業は技術と経営を両輪にして進んでいくが、農村というコミュニティを軽視すれば、やがて農業の進歩は失速してしまう。農村コミュニティには「共助」と「協働」が存在する。共助とは、個人では決してなしえない水や土壌の管理、放牧地や里山など共有地の管理、道路の修復、防災のための治山・治水事業などを村人たちが共同で行うというものである。一方協働とは、農村がかかえる地域課題を解決していくために、関係者が主体的に課題解決型のプロジェクトに参画・参加して、知恵を出し合いまた相互に不足を補い合いながら協力していくことである。こうした共助と協働により農村コミュニティは育まれ、それが個々の農家の生産や生活の安定をほどよく担保してきた。また農村コミュニティには、隣保関係をベースとして祭儀が営まれ、長年の蓄積のなかで多様な文化や重厚な芸術が育まれてきた。
いうまでもなく、農家の全体としての技術と経営の発展により農業の生産力が高まっていけば、さらには農業・農村を取り巻く社会・経済環境が大きく変化していけば、それに相応しい農村コミュニティの変容が起こるであろう。一方で、農村コミュニティの変容が農業の技術と経営のあり方を規定していくこともありうる。端的にいって、農業と農村は分かちがたく結びつき、相互に関係・連絡を取り合いながら共存している。実はこのことの深い理解と認識こそが、農学的発想といわれるものである。
ともすれば、農学が生命科学の知識や分析ツールを借用して生物現象の解明に偏りがちになる傾向は否めないが、感性をよりどころとした農学的な発想から、社会課題に対して積極的に物申すスタンスを築いてほしいものである。
今春も数多くの新入生が農学の門をたたいた。農学が有する固有の感性を生かしながら、社会への発信を続ける人材に育ってほしいものである。
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