グローバル情報研究部会メンバーの大西先生が調査した醸造科学科の記事がAERAdot.に掲載されました。
東京農業大学は、日本最大の農学系総合大学であり、生命科学をはじめとする先端分野から醸造などの伝統技術まで網羅するユニークな存在だ。中でも1950年に設置された醸造学科は、人材育成を通して日本酒業界などを支えてきた。
財務省関税局が発表した貿易統計によれば、2017年の日本酒の輸出量は前年比19.0%増。金額でも19.9%増となり、どちらも8年連続で過去最高を更新した。ユネスコの無形文化遺産に和食が登録されたことによる世界的なブームが要因とされており、輸出先では米国が約25%を占めてトップとなっているが、フランス、イタリアを中心に欧州での需要もますます拡大すると予測されている。
ただし、日本酒全体の出荷量は70年代から右肩下がりを続けてきた。近年はようやく落ち込みに歯止めがかかったが、依然厳しい状況にある。それでも、海外での日本酒人気という明るい兆しに的確に対処できるのは、東京農業大学の醸造学科・醸造科学科が卒業生を輩出して業界を支えてきたからだといっても過言ではない。
東京農大は、1891(明治24)年に榎本武揚によって創立された私立育英黌農業科をルーツとして、今年4月で創立127年を迎える。東京・世田谷、神奈川・厚木、北海道・オホーツクの3キャンパスを持ち、農学部、応用生物科学部、生命科学部、地域環境科学部、国際食料情報学部、生物産業学部の6学部23学科を擁する大学だ。大学院も農学と生物産業学の2研究科20専攻を設置している。
同大学に醸造学科が誕生したのは1950年に設置された短期大学にさかのぼる。より高度な教育研究を行うため、53年には大学農学部でも醸造学科を増設し、98年には応用生物科学部醸造科学科に改組。69年目となる今年まで「醸造」という名称を冠した高等教育機関は全国でも唯一無二だった。
髙野克己学長は「戦時中は酒づくりなどが統制されており、戦後の好景気を意識して、日本酒だけでなく味噌や醤油も含めた醸造業者の後継者育成を目的としていました」と振り返る。ワインなどは原材料に酵母を加えればアルコール発酵するが、日本酒はそうはいかない。蒸した米のデンプンを麹菌がブドウ糖に変え、このブドウ糖を酵母がアルコールに変えるという複雑な工程を必要とするため、体系的な知識と高度な技術が不可欠なのである。
「初代学科長の住江金之教授は自身が蔵元の子息だったことから、東京農大の基本理念である実学主義を通して、醸造業界を支えていく人材の育成と産業発展に寄与しようとしたのです」(髙野学長)
その実学教育を象徴するのが「食品特別実習」だ。
これは醸造学科が設置された当初から実施されてきた1カ月以上にわたる学外実習であり、在学中に全員が2回工場に寝泊まりして、醸造技術だけでなく、社会勉強も行う。これが現在の醸造科学特別実習に発展してきた。12月中旬から約2週間、卒業生が経営または勤務する全国各地の醸造・食品関連の製造工場や販売関連企業に学生が二人一組で出向き、社員と寝食をともにしながら醸造や食品加工などの実務を体験。終了時には研修先担当者が実習内容を評価する。
それによって、学内では得られない応用力やコミュニケーション能力などの社会性を身につけるのである。2017年度は118人の学部生が、南部美人や司牡丹などの蔵元も含めた全国56の事業所で実習を行っている。
東京農大がこのほど行ったアンケートによれば、酒造業界における卒業生の在職割合は50%にも達している。歴史に「もしも」は禁句だが、住江金之教授が醸造学科を創立していなければ、国酒とされる日本酒や焼酎はもとより、伝統的な調味料である味噌・醤油などの産業の衰退は今よりも早く、歴史の中に消え失せていた可能性すら感じられる。前述した世界的な日本酒ブームにしても、みすみす幻として見逃すことになったかもしれない。
東京農大では「全国酒造会社における現状及び東京農業大学卒業生の在職状況に関する調査」と題するアンケートを行った。調査期間は2016年6月〜17年12月末。1936社に対して調査票の郵送などを行い、1391社から回答が得られた(71.8%)。それによれば、酒造業界における東京農大卒業生の在職割合は50%であった。
卒業生は日本酒の蔵元などの現場で様々に活躍している。上のマップに紹介したのはほんのごく一部だ。また業界に新しい風を吹き込んだ卒業生についてもその一部を簡単に紹介しよう。
まず海外の市場を他に先駆けて開拓してきたのが、出羽桜酒造4代目の仲野益美さんだ。
「1997年から〝吟醸を世界の言葉に〟を目標として輸出を開始。人口減少やアルコール離れが表面化して新規市場の開拓が叫ばれ始めた頃です。当初はワインやビールが根付いた土地での日本酒普及は思うように進みませんでした。日本の文化としての日本酒を世界の酒にするべく、蔵元が集まって地道な啓蒙活動を根気よく続けました。そのうちに日本酒に深い愛情を持つ流通業者との出会いもあって、本格的な輸出が始まり、その後も採算度外視で現地に出向き、日本酒を広く認知してもらえるように努力を重ねてきました」
東京農大で学んで役立ったことは「パワフルで発想力豊かな先生方から視野を広く持つ大切さを学びました。同じ志を持つ仲間からは、酒づくりに必要なセンスは人と接することで磨かれるということに気づかされました」と語る。
「十四代」で日本酒業界に蔵元杜氏・芳醇旨口などの新風を吹き込んだことで知られているのが、高木酒造の髙木顕あき統つなさん。杜氏が高齢で引退する際に「東京農大で醸造学を学んだのだからつくれるはずだ」と先代から任された。
「これまで主流だった淡麗辛口から、もっと米の味がする芳醇な飲み口の日本酒をつくりたいと思い、試行錯誤を繰り返してきました。日本酒は伝統産業ですから次世代に継承していくことが自分の大切な使命だと認識しています」
1965年頃から早々と純米酒に着手した「〆張鶴」の宮尾酒造で伝統を受け継ぐのが11代目の宮尾佳明さんだ。
「宮尾家には2代目が酒づくりの詳細を記録した『酒造伝授秘法之巻』が残っており、創業時から蔵全員が一丸となって良質な酒づくりに取り組んできました。特色ある食文化が発達した新潟県村上市で、多彩な料理に合う後味の良い酒を目指してきたことが看板商品である『〆張鶴 純』に結実しました。大学での授業は大変役に立ちますが、教科書だけでなく実際の現場から知識を得ること(実学主義)の大切さを学べたことが大きいと感じています」
一般的な蔵元は酒米を農協から購入しているが、地域の遊休農地を借りて自作しているのが関谷醸造の関谷健さんだ。「卒業論文の研究をする中で原料米によって酒の品質がかなり違ってくることに気づいたことがきっかけ」という。
「今は原料米の12%程度ですが、この1次産業に酒づくりという2次産業、さらに販売やサービスなど3次産業も取り入れ6次産業化も行っています」
日本酒だけでなく、ワインの分野でも卒業生が活躍している。ココ・ファーム・ワイナリーでは、隣接する障害者支援施設こころみ学園の園生たちが60年前に開墾した山の葡萄畑の麓でワインづくりを行っている。同学園の理事長でもある池上知恵子専務取締役は「葡萄の”こんなワインになりたい”という声に耳を澄ませ、その持ち味を生かすことを大切にしています」という。
「目に見えないたくさんの命の働きによってワインも私たちも生かされているということを大学で学んだからです」
また焼酎の代表的な銘柄である「佐藤」の佐藤酒造(鹿児島県)も、東京農大OBの佐藤誠さんが経営する蔵元だ。
この他にも、全国700社近い酒造会社で卒業生が日々酒づくりと向き合っている。酒造業界の今後の展開に、東京農大卒業生の活躍が期待される。
東京農大の調査によれば、酒造会社に在職する卒業生を出身学科別に見てみると、約85%が醸造科学科の卒業生であり、約15%はその他の学部学科の出身だ。
「忠臣蔵」の銘柄で知られる奥藤商事代表取締役の奥藤利文さんは、農学部林学科(現・地域環境科学部森林総合科学科)の卒業生。自然に関心があったので進学した奥藤さんが酒造業界に入ったきっかけは、東京農大卒業時に実父の長兄の跡取りになったことだ。いわゆる本家の養子になったのだが、それが蔵元だったのである。
異なる分野で大変なこともあったが、今では醸造科学科を卒業した息子と息子の同級生も入社し、3人で酒づくりを行っているという。
「経験的な知恵では息子たちに負けないと思いますが、知識や人的なネットワークはさすがにかないません。今後も優秀な人材を輩出してほしいですね」
泉橋酒造の「栽培醸造部」に勤務する高橋亮太さんも、地域環境科学部生産環境工学科の卒業生だ。
「大学で研究した酒造用精米技術を現場で生かしたいと思い、神奈川県の酒造メーカーで唯一精米機を所有していた泉橋酒造に就職しました。現在も所属していた研究室とつながりがあり、精米等の品質評価を実施。酒米栽培や醸造プロセスの改善に役立てています」
このように酒づくりは醸造だけでなく、原料となる米づくりから始まり、流通・販売・経営まで幅広い分野と業種が関わっているため、醸造科学科以外の学科でも酒造関連の企業を視野に入れる学生は少なくない。
東京農大では、多彩な学問領域を展開しているが、これを横断的なプロジェクトを通してさらに活性化するのが、1978年に設置された総合研究所だ。産官学が連携した共同研究の窓口でもある同研究所では様々な研究室をつなぎ、商品化してビジネスにつなげるプロジェクトなども立ち上げている。「様々なプロジェクトの中で長期的な計画として酒米プロジェクトがあります。これは新たな酒米の開発を目指しています。酒は製造後しばらくすると老香と呼ばれる劣化臭が出ることがあります。その正体を突き止めると同時に、ゲノム編集など分子生物学などを活用して、高品質でより扱いやすい原料米を新たにつくろうという根源的かつ革新的なチャレンジ。このように最先端の科学・化学、情報学、社会科学などを融合したプロジェクトが進められています」(山本祐司総合研究所長)
地方創生や産業の活性化につながる社会性の高いテーマに対し、多数の学科が連携して課題に取り組む姿勢は東京農大の教育研究理念「実学主義」を体現した例だと言えるだろう。
「農業大学」と聞くと、農業生産のことを学ぶ大学というイメージを抱きがちだが、生産物を消費者に届ける過程における、加工や流通、経営といった2次産業、3次産業も非常に重要な農学の学問領域であり、関連する業種が広いことはあまり知られていない。
また、近年は1次産業から3次産業までをつなげた6次産業化にも注目が集まっている。産業間のつながりの重要性が増しつつある中、同大には食や農に関する学部学科が網羅的に設置されているという強みがある。
「東京農大の掲げる教育研究理念『実学主義』は、単に知識や技術を学ぶだけでなく、問題の原因解明を含めた、大きな視野を持って問題に取り組み、そこからさらに新たな学びを得る、ということを意味します。大きな視野を持つためには、様々な視点から物事を考えられることが大切です」(髙野学長)
創立から127年、同大卒業生数は17万人に及ぶ。その一人一人が1次産業から3次産業まで幅広い分野で活躍し、各産業を支えている。髙野学長は「これからも業界のリーダーとなれるような有為の人材を、国内はもちろん、国外も含めて様々な産業に送り出していきたい」とその思いを語った。
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