2015年4月25日のマグネチュード7.8のネパール地震から一年が過ぎたが、奇しくも今月日本で5年前の東日本大震災以来のマグネチュード5を越える大きな地震が熊本地方中心に起き未だに連続地震が進行中である。このマザーネイチャーのエネルギーの暴発現象を止める術はないが、地震に対して我々はどの様に対処/準備し災害を最小限に防止するか、またどの様に迅速に復興して行くか地球(グローバル)レベルの問題として待ったなしである。持続的環境をと言うが地震とどう共生して行くかというのもマクロな意味での持続的環境の問題である。そう言った背景を踏まえ、今後も支援金の窓口を広げ活動資金も確保していかなければならない。農大総研グローバル情報研究部会(GIA)として昨年4.25ネパール大地震直後からスタートしたネパール支援をどの様な形で継続して行くかの問いに対して2015年11月にネパール現地に飛んだ武原が地震発生からちょうど一年過ぎた今考察してみたいと思う。 昨年の4.25ネパール地震直後に東京農大留学生クマール君からの支援を求めるメールに対してGIAとしてGIAホームページ及びフォーラムで支援活動を呼びかけ集まった募金をクマール君を通してネパール農村部の支援の為に送りました。そこで、彼の出身地であるネパール中部FikuriにあるGogane村のレポートからはじめようと思います。これは学術レポートではないので一人称で書き進める事をご了承ください。
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Day-1
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11月7日(土)農大でのAISAS学会の打ち上げで大澤学長・夏秋副学長・志和地教授と杯を傾けた其の足で空港に向かい翌8日(日)深夜00:20am羽田空港を発ちタイのバンコック経由で日本と3時間15分時差のある首都カトマンズ空港に8日昼過ぎに到着。そこからクマール君の兄ラムさんの案内でiPhoneのチップを入れ替えカトマンズ市内の銀行で円からルピーに両替しそのままジープでKatmanduを離れGalchiを経てTrishliと言う山間の町に着いたのが18:45pm。その間舗装された曲がりくねった山道を約4時間走ったが、ここで説明しとかなければならないのが私が行く1ヶ月前に起きたインドのネパールに対する経済制裁である。2006年に数百年続いた王政を排し政権を国民の手に渡して民主制国家を建設中のネパール連邦民主共和国だが、未だに新政権発足以来実現していない憲法制定の為の初の憲法案を昨年9月に纏めたのは良いがその内容にインド政府が強く反発してインドからのガソリン供給をストップされてしまった。その影響でネパール国内のガソリンが一気に不足しガソリン価格が急騰、ガソリンスタンドは開店休業状態でカトマンズ市内の道の両側にはガス欠のバス・トラック・自動車・バイクがただただ並んでいる状態。何らかの方法でガソリンを確保して走っているバスは当然超満員で屋根の上にも人を乗せて走っているまるで40年前に行ったインドの光景に逆戻りした様な状態だった。
カトマンズ市内を離れ郊外の山道に入ってもすれ違うバスの上には人が荷物と一緒にしがみついていてよく落ちないものだと感心しながら山道を登りやっとTrishuliに着いた。まわりも暗くなりはじめジープのドライバーが今日はここのホテルに泊まって明日朝一で目的地のGogane村まで行った方が良いと言ってきたが私に与えられたネパール滞在期間は4日間しかなくその日のうちに現地に着いておきたいと思ったので彼のアドバイスを押してTrishuliから出発した。ここからは現地の人の言う事を聞かなかった私の反省の弁だが、KatmanduからTrishuliまでの道は舗装されていたがそこからは人の頭ほどの石がゴロゴロ敷いてあるまったくの田舎道でさらに上り坂も急になりよくこんな道を車が走れるものだと思えるような山道だったのだ。地震の影響もまだ残るところどころ崖沿いの片道通行のところもある細い道をネパール山中の暗闇の中ジープのライトを頼りにいつ着くのか分からぬ不安にかられながらGogane村まで登って行くことになった。そして遂にドライバーがこれ以上は危ないから走れないと言うので最後は荷物を担いで凸凹の山道を歩いてやっと村に21:30pm到着。裸電球が一つだけ灯る土壁の家に着いたのは羽田空港を出てからちょうど24時間後だった。しかし、夜遅くの到着にもかかわらずクマール君の家族は快よく迎えてくれ、その夜は兎も角そこで寝て2日目の行動に備えることになった。
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Day-2
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早朝より目が覚めたので夜明けのネパール山中でGIAとして何が出来るかをイメージする。一口に地震復興支援といっても色々な分野があり時間もかかるので具体的な支援の対象を決めて調査し且つ実施においては複合的な支援が必要である。そうしないと、ハード(現金も含めて)を作って渡して終わりと言う中途半端な支援になってしまう。何と言っても地球が相手だから持続可能な支援である必要もあるだろう。カースト・部族・習慣・気候・道路交通事情等ネパールの国の特性を理解し地域の事情・地形・主要産業・集落構成・生活様式も踏まえて被災者が何を必要としているかを把握しなくてはならないがそれは各地域によって異なる。そう言った諸々の状況の中でライフラインはもとより支援の対象を決めて中・長期の期間を分けて予算金額を割り出しGIAとして何をするのかを決める。そして予算確保して実際に支援プロジェクトをスタートしなくてはならない。
いづれにしても2日目はこの村の地震被害の状況を把握する事と4.25以降にGIAが送ったドネーションがどの様に使われたのかを現地調査する事にした。中国との国境の山カンテラ(中国名チョモランマ)の白い頂きを遠くに望むゴガネ村は雪こそないが斜面に張り付いた様に土と木で出来た家が点々とある標高1000m程度の集落で山の斜面に稲とマイズの段々畑が広がるおそらくネパールでは典型的な農村だろう。こんな高地でもバナナの木があるのがネパールらしい。それでも聞けば3000人程の人口があるそうで過疎化が進む日本の山村とはちょっと様子が違い小さな子供も結構居て高齢化はしていない様に見受けられた。2階建てもあるが多くは平屋で土間兼キッチンとベッドのある寝室だけの人間が住むエリアと、牛やヤギなどの家畜の住むエリアが同じ屋根の下につながっている。トイレは別棟で小さなブロック製の小屋が水洗場を挟んであり水は細い水道管が各家に来ていて話によるとGIAのドネーションしたお金は山の上流からの水道管の復旧工事に一部使ったとの事であった。電気は一応来ているが何とも頼りない木の柱から各家に配線されている。それでも衛生電波を利用した衛星電話とTVが使用可能な様でケータイから日本へ電話も通じる。基本的なライフラインはあるが足りないと思われるのは家を修復する為のお金と男たちの仕事だろう。だから若い男達はカトマンズ市内か外国に出稼ぎに行くか移住する者が多い様に思われる。男がいない間の農作業の担い手は女性だろう。この村から東京農大に留学しているクマール君も地震の前から村のホープに違いない。日本でもそうだが地震で壊れた家を建て直すにしてもまた次に大きな地震が来た時のことを考えBuild back betterを推進しなければいけない。ただお金を渡して建て直しただけでは能がないので、今回のゴガネ村のケースでは家を建てる場所をよく考えて鉄筋の家にするのが良いと考えられた。
また村を歩き回って気が付いたのは、4.25の地震の後US AIDが建てたカマボコ型の金属製のシェルターが幾つか建てられていたのと間接的食料支援の為か野菜の種が農業援助とは別に地震からの復興支援として配られていたことである。また前述の水道復旧工事に関してはネパール政府から各村に人口一人当たり幾らと言う計算で支援金が受給されそれでホースを購入してあとは村の人々の労働力で上流の水源からホースを引いて水道水を復旧させたとのことであったが、政府からの支援金額では足りないのでGIAからのお金をあてたとの事だった。たまたま偶然にも今回私がネパールを訪れたのはてティハールと言う大きなお祭りの直前で日本で言えば大晦日の様な日に当たったので別れ際に私の額に紅いドットを描き首にマリーゴールドのレイをかけて歓迎(たぶん)の儀式を行ってくれた。短い時間ではあったが村の人達には感謝したい。クマール君の母親は私が何も食べないので大層心配そうな顔をしていたが実は私は日本を発つ前日(2日前)に日本で人間ドックに入り腸の内視鏡検査をしたばかりで一週間は刺激になる様なものは食べない様に注意されていたので体調を崩さない為に極力いつもと違う食事は取らないでいた事をここで釈明しておきたいと思う。客人が家に来て出したものを何も食べない事にその家の女性として気を使うのは日本もネパールも同じ様である。また真偽のほどは確認していないがネパールにマリーゴールドの種を持ってきて広めたのは日本人だそうである。また一つ勉強になった。 昨夜やっとの思いで悪路を登ってきたゴガネ村であるが限られたネパール滞在期間に出来る限りの情報をゲットしなければならないのでその日のうちに村を出て再びジープで山を降りたが明るい昼間に見るとよくもこの悪路を暗闇の中登ってきたものであるという様な道でドライバーの運転技術に感心したが後で聞いたら彼はインド北部から来ていて以前はインドの警察官だったから運転の訓練は受けていると聞いて納得である。カトマンズにはインド人が沢山働きに来ているそうである。我々には見分けが付かないが人種も宗教も類似している民族だから5年間住めばどちらの国籍も取れるそうである。ネパールとインドは持ちつ持たれつの関係なのである。その兄弟の様なインドからガソリンの供給を止められたのでは困ったものである。なんでも新憲法案ではネパールを7つの州に縦割り(南北割り)に分割するのだそうだがそうすると東西に広がるインドとの国境地域にあるインドの利権が分断され失われるのでインドが猛反対して2本ある国道(両国間の動脈となる物質供給路)を通るガソリンタンク車を規制してしまったとの事。どこの国も既得権益は大きな壁の様である。 凸凹道を下って途中の川でジープを洗いTrishli町に戻ったらジープの前輪のサスペンションが案の定山道の石に当たって壊れたというので町の修理屋に寄って溶接修理してから昨夜泊まれば良かったホテルのレストランで食事。やっとインターネットネットに繋がり(ネパールではほとんどのレストランでwi-fiが飛んでおりセキュリティーの程は怪しいがインターネットを使える。)メールをチェックし一路カトマンズへ。今のグローバル社会において海外に行って一番大切なのはインターネット回線である。それさえあれば人との連絡から地図で場所探しからホテルのブッキングからオンラインバンキングまで何でも出来るがインターネット回線が無いと何も出来ない。時代の変化を実感する。 カトマンズに向かう車の中からドライバーの携帯電話を借りて出発直前に農大三原教授の主宰するNPO法人ERECON(環境修復保全機構)のスタッフから頂いた電話番号を頼りにカトマンズ大学のビム教授にアポを取り指定されたカトマンズ市内中心部の元の王宮のあった場所近くのホテルへ。ガソリンが不足しているとは言えカトマンズ市内は夕方ラッシュ時という事もあり大交通渋滞でドライバーの不機嫌そうな顔を見ながら到着しホテルのレストランでビム教授と合流。カトマンズ大学の教授仲間と学生そして娘さんと待っていた日本への留学経験もあるとても親日のビム教授から現在のネパールの問題点と三原先生と進めている農大とカトマンズ大学の地震調査プロジェクトへの期待を熱く語る彼の話を伺い。明日もう一度会って話をする約束をして彼の勧めるホテルへチェックイン。ひとまず無事山から下りて一服した。今のところ腹の調子も大丈夫だ。
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Day-3
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朝から、農大でドクターを取った後「母国へ帰って日本で学んだ事を活かせ。」と言う故藤本教授の教えに従い現在カトマンズに在住するアローラ女史とお会いした。地球上グローバルに在住する東京農大のネットワークは心強い。彼女のインテリジェンスあふれる話ぶりからは想像できない様なワイルドな運転でネパール市内のルール無用の交通渋滞を「ここで運転できれば世界中どこでも怖くない」と彼女が言う通りのスリル満点の運転を味わいながら走り抜けUN(国連)の向かいにあるJICAネパールオフィスへ行った。JICAでは清水所長とお会いし1995年から20年間かけて2015年に完成した日本政府とネパール政府の円借款政府間援助プロジェクトである”Sindhuli Road建設”の話を伺った。この新道路により山間地の多いネパール国内のインドからの物資輸送時間が大きく短縮されたと同時に新道路沿いの農業地域の発展にこれから大きく貢献するだろうとの事であった。私が感じたのは、この国(ネパール)は日本と似ていてる。大国インドのお隣にある小国という意味で大国チャイナの隣にある小国ジャパンとは通じるものがあると言う事だ。それを裏付ける様に、日本の対ネパール2国間ODA(政府開発援助)において1980〜2002年の間最大供与国であった。地政学的にも日本にとってネパールはこれから益々重要な国になるだろう。 ここで簡単にネパールという国を紹介しておこう。ネパールの総面積は147,181平方キロメートルで、国境の東・西・南はインド、北はエベレスト山脈を越えて中国チベット自治区と接している。最低海抜は海抜70メートル、最高標高点は言わずと知れたエベレスト山頂で世界一の8,848メートルです。東西の国の幅は800キロメートル南北は230キロメートルで国土の8割が山岳地帯にありその事でも日本とよく似ています。人口2,649人(2011年国勢調査)、宗教はヒンドゥー教徒81%・仏教徒11%・イスラム教徒4%、経済は名目GDP192.9億ドル(2013年)年平均GDP成長率4%(2005~2015年)一人当たりGNP730ドル(2013年),GDPの3割が農林業で2012年の観光収入は約4億ドルと豊富な観光資源と水力にポテンシャルがある国です。日本による支援で代表的なものは、主要幹線道路網・空港の整備、都市環境(カトマンズ盆地市内の浄水場の52%は日本とが支援)、電力(国内電力供給の1/3を日本が支援)、農業支援・教育・保険に関する支援、及び民主化・平和構築と言ったインフラ・行政を含めた国の枠組み作りを包括的に支援している。そして、昨年2015年4月25日の大震災の被害ははマグネチュード7.8・死者8,959人けが人22,322人・全壊家屋602,591戸・被害総額は約8,689億円にのぼった。昨年11月時点での日本からの支援総額は320時億円超で救助/医療チームの派遣・緊急援助物資供与などの緊急人道支援、学校再建に140億円(ADBとの協調融資)、住宅再建に120億円(世界銀行との協調融資)、公共施設・インフラ等の復旧に40億円(無償)、復興計画・防災計画の策定支援を行っている。因みに、JICAのオフィスの壁にも地震の影響でヒビが入ったままで2016年には日本大使館近くの建物に引越しするとの事であった。JICAを後にしUNの前にあるレストランでアローラ女史とランチをご一緒しチャイニーズの小籠包の様なネパール料理をご馳走になった。そしてまた交通ジャングルの中を彼女の豪快な運転で切り抜けホテルに戻り一息。昨日約束したビム教授とのミーティングを待った。夕方、ガソリンが無いので奥さんのを借りてきたと小型バイクでホテルに現れたビム教授はなかなかの日本通で長男のアブヒ君は日本生まれだそうだ。彼の熱心な話を聞くうちに気が付いたら深夜まで一緒にウイスキーを一本空けていた。彼が日本に来た時にはお返しをしなければいけない。
世界中どこへ行っても要は人間対人間の関係である。地震からの復興に於ける大学の役割は大きい。東京農大とカトマンズ大学のプログラム「ネパール大地震による農山村地域の被災状況に関する実地調査とGISデータベースの作成」の他にも、東京大学地震研究所とネパール産業省鉱山地質局の「余震及び微動観測によるカトマンズ盆地の地震動メカニズムの解明」、京都大学防災研究所とトリプバン大学地質学部の「ネパール大地震による山地斜面災害の現場把握と復興計画策定のための斜面災害評価図の作成」、名古屋大学とカトマンズ大学の「ネパール・ランタン谷における雪氷土砂災害の調査」、山梨大学総合研究部とトリプバン大学工学部の「大地震がネパールの水安全に及ぼす影響と復興対策に関する調査・研究」、東京大学地震研究所とトリプバン大学工学部の「既存を含むネパールの建築物の耐震性能評価精度向上に資する調査研究」、東京大学大学院工学系研究科とシェルター&地域技術開発センターの「ネパールじしんごの都市部および農村部における住宅再建プロセスに関する研究」、愛知大学理工学研究科とネパール地震協会の「カトマンズ盆地における地盤液状化の実態解明と液状化強度特性および揺れやすさ分布の調査」、京都大学地球環境学部とトリプバン大学工学部の「ネパール大地震による歴史的建造物被害調査に基づく脆弱性再評価と耐震補強法の検討」、東京大学生産技術研究所とネパール地震工学協会の「2015年ネパール・グルカ地震の被害実態に基づく被災地の脆弱性評価」、北海道大学地球環境科学研究院の「ネパールドラカ郡における危険集落の住民一時避難サイトおよび集落移転候補地選定に関する研究:ハザードマップ作成を通したアプローチ」、高知県立大学看護学部とネパール看護師協会の「避難移住地における感染症流行予防のための生活環境モニタリング」などが現在進行中(JーRAPID)であるがその中で農学系のプログラムは東京農大地域環境科学部の三原教授のプログラムのみであるのでその重要性は大きいと思われる。
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Day-4
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最終日、午後の飛行機でネパールを離れるので午前中にカトマンズ市内の地震被害の状態を足早に視察。京都に留学していた経験を持ち現地で日本語も教えているチャンドラさんの案内でカトマンズ市内中心部にある世界遺産・寺院・王朝時代の建物を見て回ったが地震後まだ全く修復は始まっておらず何十本もの木の棒で斜めになった倒壊寸前の古い大きな建物を支えている状態。完全に倒壊してしまった歴史的建造物は土台だけが残った無惨な状態であった。そのすぐ横でティハール祭祀の為の宗教色溢れる色とりどりの飾り物を売る露店が地面いっぱいに広がりそれを買い求める市民が所狭しと集まっていた。日本で大晦日に熊手や正月商品を買いに人々が集っている浅草の境内を思い浮かべて頂ければいいと思う。大地震の爪痕がそのままのヒンズー教や仏教寺院のある茶色い広場に集まる人間の群と露店の花やお供え物の赤や黄色の煌びやかさが混沌の程を表している。4月の大地震、10月のインドからの経済制裁によるガソリン供給ストップ、それでもお祭りで賑わう街に溢れる人々の往来、埃と騒音に覆われたカトマンズ市内で生活する人々の姿は、まさにネパールという国の現状を表している様に思われた。
「Namaste」 Wrote by Tai Takehara on April 2016
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